12日は、高山別院で瓜生崇さんのお話をお聴聞。

飛騨高山は、基本的に本願寺派(お西)よりも、大谷派(お東)のお寺さんが多い地域でもあります。
その象徴としてあるのが、真宗大谷派 高山別院。通称、「ごぼさま」。
12日は、こちらを会場として、高山2組婦人聞法会が開催されました。
婦人とはいうものの、男性でも参加OKとのことで、参加費200円も持参して、お参りしました。

会場のホールは、満堂のご門徒さんで溢れています。
私はテーブル席の最後列に座ったのですが、それでも席が足らず、私の後ろに急遽イス席が追加されていました。
熱気溢れる雰囲気の中、滋賀の玄照寺住職、瓜生崇さんのお話がスタート。
「どうして葬式や法事をするんですか?」
という、ド直球のテーマでお話しくださいました。

ここからは、あくまでも私の個人的お味わいです。(^_^;)


葬儀は、亡くなった方の追善のためではなく、残されたこの私のために行うもの。
生きがいを求め、自分の願望を満足させるための人生は、最期には全てがもぎ取られてしまう、むなしい人生となる。「独生独死」で終わってしまうありよう、これを「無明」という。
私の願いの根本にあるのは、実は「無明を解決したい、生死の迷いを超えたい」という思い。そのことに気付かないまま、目の前に生きがいを求めていた私のありようが、無明の迷いを生み出していた。
その私のために願いを起こされたのが、法蔵菩薩(阿弥陀さまがお悟りを開く前のお姿)。
国王の立場(全ての願望が満たされる姿)を捨てて、師匠の世自在王仏のもとで、願いを起こされた。
「無明の闇を抱えた汝を救うため、南無阿弥陀仏の名となって、あなたを呼び続ける仏と成る」という願いが完成された。
「独生独死の私」が、「すでに願われていた私であった」と知らされるままに、私の側に解決の方法があったのではなく、阿弥陀さまのほうから願い、喚び、聞こえ、支え続けて下さっていた。
そのことひとつを聞かせていただく尊いご縁こそが、ご葬儀であり、ご法事であるということを、聞かせていただきました。

お隣で聞いておられたお方も、「とても頷けた。今までの自分の当たり前が問われるけど、わかりやすくてありがたかった。」と仰ってくださいました。
いっそのこと、毎年、連続講座でお越しいただいても良いんじゃないか、と思いましたね。
高山2組のかた、ぜひご検討くださいませ。(*^_^*)

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