こんなはずじゃなかった・・・

 「私の老後は、こんなはずじゃなかったんです・・・。」  月参りのあと、ぽつぽつと話し始められたおばあちゃんの一言です。

 「主人と結婚して、子供も大きくなって、やがて仕事も一段落して、あとは悠々自適の生活を送れるものだとばっかり思ってました。

 ところが、一緒に住むはずの子供は名古屋に出ていってしまい、主人は病気であっという間に死んでしまい、まさか私一人での孤独な老後を迎えようとは・・・。

  私の老後は、子供夫婦と仲良く暮らしながら、主人と二人で楽しい余生を過ごすはずだったんです。

 それが、こんな形で一人暮らしになろうとは・・・。

 全く、こんなはずじゃなかったんですけどね。」

 また先日、ご法事の席で、ある男性がしみじみと告白されました。

 「今まで弱音を吐いたことのない妻が、体の不調を訴えたときには、何かイヤな予感がしました。

 案の定、医者からはガンの宣告を受け、妻には病名を伏せながら『大した病気ではないから、すぐに良くなるよ』といって慰めていました。

 でも、それから一ヶ月と持ちませんでした。

 五十代という若さゆえ、病気の進行が早いとは覚悟していましたが、まさかこんなに早く別れが来ようとは・・・。

 まったく、何をしたらいいのかわからないままに別れを迎えてしまいました。

 こんなことなら、もっと早いうちからいろいろと話し合っておけば良かったと悔やまれてなりません。」

 私には、全く返す言葉もなく、「そうですね・・・」とお聞きする以外にありませんでした。

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 実を言うと、我が家でも昨年の年末に、大きなハプニングがあったんです。

 一歳三ヶ月になる末っ子が風邪をこじらせて脱水症状を起こし、点滴を受けるために日赤に入院したのです。

 結果的に、末っ子と妻は、病棟の中で新年を迎えることとなったのでした。

 そのとき私は、心の底から「なんでこうなるんだ」「こんなはずじゃなかった」と思ったものです。

 それと同時に、今まで当たり前のように思っていた自分や家族の健康が、実は当たり前ではないということに気付かされたのでした。

 いつの間にか、自分たちのことが「思い通りになる」と思いこんでいた私の傲慢な思いに気付かされ、「思い通りにならない」のが本当の私たちの姿であると、あらためて知らされたことです。

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 人生の設計図は、多かれ少なかれ、どなたでも思い描いておられるものがあろうかと思います。

 しかしながら、人生の理想と現実のギャップに悩まされることのほうが多いのかも知れません。

 私自身、日々の暮らしの中で、「こんなはずじゃなかった」という思いを常に持ちながら日々を送っていることに気付かされます。

 知らず知らずのうちに「こうあるべきだ」という理想の人生設計を持ちながらも、思い通りにならない自分の姿にギャップを感ずる日々を過ごしているのでありましょう。

 そんなことを思うとき、ご門徒さんが言われた「こんなはずじゃなかった」「悔やまれてならない」という言葉は、まさに我がことであるとあらためて気付かされるのです。

 私たち現代人は、医学や科学の進歩によって、今まで不可能とされてきた多くの問題を乗り越えてきました。

 富を手に入れ、健康と長寿を手に入れ、自分たちにやってできないことはない、と思えるような世の中になりました。

 そんな中で、「私の人生はこうあるべき」と思いこみ、やがてそうならない現実を目の当たりにしながら、「こんなはずじゃなかった」という思いに至ってしまうのでありましょうか。

 それはもしかしたら、何でも自分たちの思い通りになるという現代人の思い上がりなのかも知れません。

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 人生が思い通りにいかなくなったときに、私たちはともすると自分よりも不幸な人を探し出して、「私はあの人よりはましだ」「あの人に比べたら、私の方が恵まれているんだ」という形で満足してしまうことがあります。

 他人を踏み台にして、その上に自分を置くことで優越感を満足させてしまうとするならば、それはお念仏によって聞かせていただく生命観とは相容れないものです。

 親鸞聖人は、自らを「愚禿(ぐとく)」と名のられ、阿弥陀様に照らされたご自身の姿を省みておられます。

 阿弥陀様の願いに出遇うということは、賢くなって、偉い人間になって、富と長寿と健康を手に入れた人生を歩むということではないのです。

 「どんなことがあっても汝を捨てることはありませんよ。だからこそ、尊い人生を歩んでくださいよ。」

 その願いに出遇うことによって、私の「こんなはずじゃなかった」という思いが転ぜられていくのです。

 健康なのは当たり前、病気など他人事だ、と思っている私がここにおります。

 家族や私が死ぬことなど、まだまだ先のことで今は関係ない、と思っている私がここにおります。

 そのような「思い上がり」ゆえに、もがき苦しんでいる私の姿を照らし出して下さり、「思うようにならない現実の中で悩み、苦しみ、悲しんでいる汝こそが救いのお目当てなのですよ」と願われているのが阿弥陀様です。

 その尊い願いの中に生かされている喜びを聞かせていただくのが、お念仏の世界なのです。

 思いがけない病も、思いもよらない死も、それこそが私の現実なのだと知らされることは、とてもきびしいことです。

 しかし、そのきびしさのままに私を願い、包んでくださるぬくもりに出遇うとき、私は「ありがとうございます」と手を合わさずにはおれません。

 そして、その喜びの中に開かれてくる人生を力強く歩んでいくことができるのです。

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『散るときが 浮かぶときなり  蓮の花』  という歌があります。

 「こうあるべき」「こうしなければ」「こんなはずじゃない」という思いが破られたとき、そのまま大いなる願いの中に生かされている我が身であると知らされます。

 人生は、長さだけではないはずです。

 また、終わり際の善し悪しで人生が決まるわけではありません。

 長寿や富、終わり際の理想を追い求め、そうならない我が身の現実に悩み続ける人生では、どこまでいってもその苦しみから離れることはできないのです。

 私中心、欲望中心の「こんなはずじゃなかった」という思いを阿弥陀様におあずけすることで、傲慢な我が身を知らされ、「頭が下がる」世界が開かれてきます。

 「こんなはずじゃなかった」から、「これが私のありのまま」へ。

 そしてそこから、「この喜びを共に分かち合おう」「共に歩もう」という生きざまを聞かせていただくのです。

 きびしくもあたたかい、喜びの生きざまが開かれてくるのだと聞かせていただくことです。

 

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